新人起用に専属契約で大ヒット!知られざる週刊サンデーの歴史 [漫画の描き方が書かない漫画の描き方]
>週刊「漫画サンデー」の創刊は最初の漫画専門の週刊誌として、相当に話題を呼んだ。
「近藤日出造の世界」の305ページに、気になる文章があった。
著者の峯島正行氏が「漫画サンデー」初代編集長なのだ。
創刊に際し、峯島は日出造に協力を仰いだ。
その結果を書いた一文である。
ここでいう漫画サンデーとは、
あだち充や高橋留美子が描いてる小学館の少年サンデーのことではなく、
2013年に休刊した実業之日本社の「漫画サンデー」、略して「マンサン」のことである。
峯島氏はマンサンが最初の漫画週刊誌だと書いている。
そうだったっけかと調べてみた。
最初かどうかは知らないが、
やはり少年マガジン&サンデーの方が、マンサンより半年ほど早く創刊していた。著者の記憶違いなのだろうか。
少年サンデー1959年3月17日
少年マガジン1959年3月17日
漫画サンデー1959年8月11日
そういえば、
少年サンデーとマガジンは創刊当時は総合誌だったという解釈もある。
どちらも創刊号の漫画の掲載本数5本。他はグラビアや小説。そんな時代だったのだ。
だから最初の漫画専門誌はマンサン。そういう捉え方なのかもしれない。その時はそう思った。
「近藤日出造の世界」のあと、
須山計一の「日本漫画100年」という本を読んで震えた。
その本の巻末に漫画史年表があるのだが、
1959年の項目には漫画サンデー創刊とあるのみで、少年サンデー&マガジンは記載がない。
…これか!
繰り返しになるが、震えたのである。
大発見だ!
つまりどういうことか。
少年サンデー&マガジンなど漫画ではない。
その創刊は漫画の歴史に記して残すに値しない瑣末な出来事。
そういう考えが一部にあったということだ。
一部とは何か。
とりあえず峯島と近藤日出造、
それと漫画100年を書いた須山と、それを受け入れる読者と出版&漫画関係者。
何度も書いているが、そういう考えが当時のいわゆる「上流」において支配的だったことがより鮮明になる記述だ。
ちなみに「日本漫画100年」は1968年初版の本で、当時少年サンデー&マガジンは創刊9年目。
1968年はマガジンで「あしたのジョー」が始まった年でもある。
すでに「巨人の星」「天才バカボン」「おそ松くん」「オバケのQ太郎」「伊賀の影丸」「仮面の忍者赤影」「エイトマン」、「サイボーグ009」「ゲゲゲの鬼太郎」など、漫画史に残る傑作の数々が世間を賑わせていた。
「日本漫画100年」を書いた須山計一は明治生まれの漫画家で、
この時代の漫画家の本を読むと名前がよく出てくる。
漫画史研究の本を何冊も出しており、夏目房之介もジッちゃんの名にかけて須山の著作を読むように勧めているほど、その見識を認められている。だから今回読んでみたのだ。ちゃんとした人のはずである。
そのちゃんとした須山の本、「日本漫画100年」の204ページでは、
昭和30年代の「漫画ブーム」に次々と創刊された漫画週刊誌(隔週刊含む)を紹介しているのだが、
漫画タイム、
土旺漫画、
週刊漫画Times、
漫画サンデー、
漫画天国、
そして漫画読売を紹介するにとどまり、
やはりマガジンとサンデーは蚊帳の外なのだった。
ダメ押しとして、
237ページの「漫画界最近の話題」の章にはこうある。
>週刊型の漫画誌の発刊がひきつづいて、四十三年春現在ではその数二十五種もでている。しかしすでに十年以上(原文ママ)の歴史をもっている「漫画サンデー」「週刊漫画タイムス」などをのぞくと、その多くは低俗なエロ雑誌にすぎなく、ただ表紙に漫画という字を冠しているのである。
>とりわけ、アクション漫画、劇画と称するものの中には、退廃的のもの、軍国主義調のもの、変質者的のものなどあって世の批判をうけだしている。
繰り返しになるが、
漫画史研究家として何冊も本を出している須山計一の1968年(当時63歳)の見識がこれなのである。
説明していなかったが、漫画サンデーはいわゆる風刺漫画専門誌である。
もっとも当時は「漫画」とは風刺漫画のことであり、そんな断りをする必要すらなかった。
さて、そんな漫画史の権威が認める漫画サンデーだったが、
「近藤日出造の世界」によると創刊間も無くは予想したより部数が伸びていかなかった。
峯島は近藤と相談し、テコ入れとして新人を起用し、雑誌に新風を送り込もうという話になる。風刺漫画の世界はベテランが仕事を独占し、新人が入りにくい世界だったという。
そこで選ばれたシンデレラボーイが、杉浦幸雄の弟子だった富永一朗である。
のちにお笑いマンガ道場に出てた人だ。
漫画サンデー編集部は、話題作りのために富永に規格外の長編を依頼する。
なんと毎号4ページも与えたのだ。4ページも!
(…風刺漫画なので、4Pでも大長編なのだそうだ。)
そこで富永一朗の描いたのが「ポンコツおやじ」だ。
エッチで下品すぎるという苦情もあったが大評判になったらしい。
その影響から、富永には他社から原稿依頼が殺到してしまう。
それは放置すれば富永が早々に潰されてしまう量だったという。
峯島は近藤らと相談して、富永とマンサンの間で専属契約を結ぶことを思いつく。
ハレンチな新人起用と専属契約。
少年ジャンプの創刊が1968年なので、9年ぐらいは早いことになる。
もっとも、専属と言っても週刊誌でなければ他社でも書いていいという、緩いものではあった。
そもそも任されるページ数が少ないからね。
富永の作風が気に食わない漫画評論家の伊藤逸平が専属契約を含め批判すると、反論を日出造が書いたりして話題になったようではある。ジャンプ編集部がそのことを意識していたのか?とりあえず西村繁男の著書には記述がない。
須山計一「日本漫画100年」にもポンコツおやじに関する記述がある。
その紹介の前に白土三平の「忍者武芸帳 影丸伝」を丸々1ページ使って解説しており、
悪書と呼ばれた劇画にあっても、さすが白土は扱いが別格だなと感心するのだが、ページをめくると…
「日本的アクション漫画の代表は富永一朗の「ポンコツおやじ」であろう」と続くのである。白土三平を露払いにしているかのようである。
白土の紹介記事をよく読むとベタな解説に徹しており、須山の白土三平に対する感想がないし、何よりタイトルを「忍者武芸帖 影丸伝」と間違えている。ちなみに「オバケのQ太郎」の作者を赤塚不二夫だとしている箇所もある。(220ページ)
影丸伝をしのぐ、
日本的アクション漫画代表の「ポンコツおやじ」とはどんな作品なんだ?
検索してみたが、Amazonで見つかるのは1966年の当時の単行本のみだ。
コンビニコミックで復刻とかもない。一過性のものに終わり、読み継がれてはいないらしい。
筑摩書房の全集「現代漫画」の第二期に「富永一朗集」があり、
そこにポンコツおやじもあったので読んでみた。
正直、まったくピンとこない。
50のオッサンと、70のババアの友情ドタバタ劇、というコンセプトらしい。
ハイテンションのセリフ回しが歌の文句みたいで独特のリズムがあり、
訳のわからない展開と併せてトリップしていく感はある。G=ヒコロウみたいだ。
しかしこれで白土三平を超えるアクション漫画とする須山の感性こそポンコツおやじである。
全集「現代漫画」の鶴見俊輔の、子供漫画の解説は感銘を受けたので、
期待して富永一朗の巻末の解説を読んだが、小難しくてよく分からなかった。
不思議なことに富永一朗は風刺漫画の賞、
文春漫画賞には5度もノミネートされているが、一度も受賞に至ってない。
2006年に出版された現代漫画博物館1945-2005には、富永一朗の名前がない。
ついでに言うと近藤日出造の名前もない。
もちろん須山計一の名前もない。
現在、長谷川裕「貸本屋のぼくはマンガに夢中だった」という本を読んでいる。
貸本や、ストーリー漫画に夢中になった作者が、風刺漫画専門誌だった「漫画讀本」について書いているのが印象に残ったので引用したい。
>肝心の絵も、あまり魅力的でなかった。似顔絵を描かせたら天下一品の清水崑や、市井の風景を綴密なタッチで描く六浦光雄など、数少ない例外を除くと、「漫画読本』の大人マンガの絵は、どれも油っ気がなく、淡白に見えた。そこには手塚マンガや杉浦マンガのような、どのページをめくってもあふれ出してくる、ぎらぎらしたものがほとんど感じられなかった。
>それに対して、子供向けのストーリー・マンガや劇画は、たとえデッサンが怪しげだろうが、パースが狂っていようが、そんなことを忘れさせてしまうほどの熱気、生命力にあふれていた。劇画やストーリーマンガの若き作者たちは、不器用ながらも、むずかしい構図や人物の微妙な表情などを、なんとか描き込もうと努力していた。その結果はおおかた野暮ったく、どこか破綻しており、けっして成功しているとは言いがたかったけれども、そこには作者の真剣さがにじみ出ていて、その迫力が読者をとらえて放さなかったのではないか。
>そうした貸本マンガ・劇画にくらべると、私には、「漫画読本」の大人マンガは手抜きにしか見えなかった。というよりは、ネームとコマ割りをみっちりと構成し、一コマ一コマを多大な労力をかけて埋めながら描かれた、新興のストーリー・マンガや劇画には、さらりと淡白な味をねらったこれまでの大人マンガを手抜きに見せてしまうほどの、強烈なエネルギーが充満していたということなのだろう。
>それから四十年たった現在でも、時事マンガ、一コマ・マンガの類は、旧態依然のまま、まったく変化していない。戦後のストーリー・マンガや劇画があれほど激しく、その表現様式を変化、発展させていったことを考えると、これはなんとも不思議なことだ。
>いずれにせよ、熱気とエネルギーを欠いた大人マンガが、子供の目に退屈に映ったのは当然で、いかに軽妙酒脱だろうが、デフォルメの妙があろうが、「漫画読本」は、貸本マンガや劇画の持つ圧倒的な。パワーの前には勝負にならなかった。このころが全盛だった「漫画読本』は、以後、しだいに読者を失い、ついには廃刊に追いやられる。
漫画讀本が廃刊になるのは「日本漫画100年」の2年後の1970年。
「日本漫画100年」には同じく1970年に常識外の負債を近藤日出造らが抱えて倒産する、日本初の漫画専門学校「東京デザインカレッジ」開校についても華々しい話題として扱っている。涙。
「劇画は邪悪」
おそらく明治大正から生きていた人は、こうとしか考えられなかったのだろう。
それだけに戦後の漫画の変化は予測不能で劇的で、強いアレルギーを伴うものだった。
それは手塚治虫や劇画がもたらしたものだと言って間違いない。
なぜ戦前の漫画史は一度人々の記憶から消え、手塚トキワ荘史観がはびこったのか?
…と言う疑問のヒントも、ここにあるような気がする。
劇画の第一人者のさいとうたかをも、かつては「劇画は漫画とは全く違うもの」と言っていた。
スマホの縦読み漫画にAIイラスト。
漫画を取り巻く環境は今なお激変の時代を迎えようとしている。
同じことが起こらないと言えるだろうか。
今の多くの漫画ファンが、ひょっとしたら将来の須山峯島近藤になっているのかもしれない。
弘兼憲史・猪瀬直樹「ラストニュース」に好きなセリフがある。
「ふむ…しかし、キミが父上を乗り越えるまでにはもうちょっと時間がかかるでしょうなあ。」
「東都新聞は百年の歴史を誇りますが、テレビ業界はたかだか四十年(1993年時点)の浅い歴史しかありません。経験が必ずしもプラスに働くとは限らないでしょうね…」
さいきん雁屋哲が、しりあがり寿の風刺漫画を芸術だと絶賛しているのを見て「ふふっ」となった。
上流だった風刺漫画はほとんど現在死滅している。
そんな光景を見てきたからこそ、手塚治虫のこのセリフなのかもしれない。
「…マンガは残りませんよ。」
「…そうかなァ… そうでしょうか。」
「作者と一緒に時代と共に、風のように吹き過ぎていくんです。ーそれでいいんです。」
「近藤日出造の世界」の305ページに、気になる文章があった。
著者の峯島正行氏が「漫画サンデー」初代編集長なのだ。
創刊に際し、峯島は日出造に協力を仰いだ。
その結果を書いた一文である。
ここでいう漫画サンデーとは、
あだち充や高橋留美子が描いてる小学館の少年サンデーのことではなく、
2013年に休刊した実業之日本社の「漫画サンデー」、略して「マンサン」のことである。
峯島氏はマンサンが最初の漫画週刊誌だと書いている。
そうだったっけかと調べてみた。
最初かどうかは知らないが、
やはり少年マガジン&サンデーの方が、マンサンより半年ほど早く創刊していた。著者の記憶違いなのだろうか。
少年サンデー1959年3月17日
少年マガジン1959年3月17日
漫画サンデー1959年8月11日
そういえば、
少年サンデーとマガジンは創刊当時は総合誌だったという解釈もある。
どちらも創刊号の漫画の掲載本数5本。他はグラビアや小説。そんな時代だったのだ。
だから最初の漫画専門誌はマンサン。そういう捉え方なのかもしれない。その時はそう思った。
「近藤日出造の世界」のあと、
須山計一の「日本漫画100年」という本を読んで震えた。
その本の巻末に漫画史年表があるのだが、
1959年の項目には漫画サンデー創刊とあるのみで、少年サンデー&マガジンは記載がない。
…これか!
繰り返しになるが、震えたのである。
大発見だ!
つまりどういうことか。
少年サンデー&マガジンなど漫画ではない。
その創刊は漫画の歴史に記して残すに値しない瑣末な出来事。
そういう考えが一部にあったということだ。
一部とは何か。
とりあえず峯島と近藤日出造、
それと漫画100年を書いた須山と、それを受け入れる読者と出版&漫画関係者。
何度も書いているが、そういう考えが当時のいわゆる「上流」において支配的だったことがより鮮明になる記述だ。
ちなみに「日本漫画100年」は1968年初版の本で、当時少年サンデー&マガジンは創刊9年目。
1968年はマガジンで「あしたのジョー」が始まった年でもある。
すでに「巨人の星」「天才バカボン」「おそ松くん」「オバケのQ太郎」「伊賀の影丸」「仮面の忍者赤影」「エイトマン」、「サイボーグ009」「ゲゲゲの鬼太郎」など、漫画史に残る傑作の数々が世間を賑わせていた。
「日本漫画100年」を書いた須山計一は明治生まれの漫画家で、
この時代の漫画家の本を読むと名前がよく出てくる。
漫画史研究の本を何冊も出しており、夏目房之介もジッちゃんの名にかけて須山の著作を読むように勧めているほど、その見識を認められている。だから今回読んでみたのだ。ちゃんとした人のはずである。
そのちゃんとした須山の本、「日本漫画100年」の204ページでは、
昭和30年代の「漫画ブーム」に次々と創刊された漫画週刊誌(隔週刊含む)を紹介しているのだが、
漫画タイム、
土旺漫画、
週刊漫画Times、
漫画サンデー、
漫画天国、
そして漫画読売を紹介するにとどまり、
やはりマガジンとサンデーは蚊帳の外なのだった。
ダメ押しとして、
237ページの「漫画界最近の話題」の章にはこうある。
>週刊型の漫画誌の発刊がひきつづいて、四十三年春現在ではその数二十五種もでている。しかしすでに十年以上(原文ママ)の歴史をもっている「漫画サンデー」「週刊漫画タイムス」などをのぞくと、その多くは低俗なエロ雑誌にすぎなく、ただ表紙に漫画という字を冠しているのである。
>とりわけ、アクション漫画、劇画と称するものの中には、退廃的のもの、軍国主義調のもの、変質者的のものなどあって世の批判をうけだしている。
繰り返しになるが、
漫画史研究家として何冊も本を出している須山計一の1968年(当時63歳)の見識がこれなのである。
説明していなかったが、漫画サンデーはいわゆる風刺漫画専門誌である。
もっとも当時は「漫画」とは風刺漫画のことであり、そんな断りをする必要すらなかった。
さて、そんな漫画史の権威が認める漫画サンデーだったが、
「近藤日出造の世界」によると創刊間も無くは予想したより部数が伸びていかなかった。
峯島は近藤と相談し、テコ入れとして新人を起用し、雑誌に新風を送り込もうという話になる。風刺漫画の世界はベテランが仕事を独占し、新人が入りにくい世界だったという。
そこで選ばれたシンデレラボーイが、杉浦幸雄の弟子だった富永一朗である。
のちにお笑いマンガ道場に出てた人だ。
漫画サンデー編集部は、話題作りのために富永に規格外の長編を依頼する。
なんと毎号4ページも与えたのだ。4ページも!
(…風刺漫画なので、4Pでも大長編なのだそうだ。)
そこで富永一朗の描いたのが「ポンコツおやじ」だ。
エッチで下品すぎるという苦情もあったが大評判になったらしい。
その影響から、富永には他社から原稿依頼が殺到してしまう。
それは放置すれば富永が早々に潰されてしまう量だったという。
峯島は近藤らと相談して、富永とマンサンの間で専属契約を結ぶことを思いつく。
ハレンチな新人起用と専属契約。
少年ジャンプの創刊が1968年なので、9年ぐらいは早いことになる。
もっとも、専属と言っても週刊誌でなければ他社でも書いていいという、緩いものではあった。
そもそも任されるページ数が少ないからね。
富永の作風が気に食わない漫画評論家の伊藤逸平が専属契約を含め批判すると、反論を日出造が書いたりして話題になったようではある。ジャンプ編集部がそのことを意識していたのか?とりあえず西村繁男の著書には記述がない。
須山計一「日本漫画100年」にもポンコツおやじに関する記述がある。
その紹介の前に白土三平の「忍者武芸帳 影丸伝」を丸々1ページ使って解説しており、
悪書と呼ばれた劇画にあっても、さすが白土は扱いが別格だなと感心するのだが、ページをめくると…
「日本的アクション漫画の代表は富永一朗の「ポンコツおやじ」であろう」と続くのである。白土三平を露払いにしているかのようである。
白土の紹介記事をよく読むとベタな解説に徹しており、須山の白土三平に対する感想がないし、何よりタイトルを「忍者武芸帖 影丸伝」と間違えている。ちなみに「オバケのQ太郎」の作者を赤塚不二夫だとしている箇所もある。(220ページ)
影丸伝をしのぐ、
日本的アクション漫画代表の「ポンコツおやじ」とはどんな作品なんだ?
検索してみたが、Amazonで見つかるのは1966年の当時の単行本のみだ。
コンビニコミックで復刻とかもない。一過性のものに終わり、読み継がれてはいないらしい。
筑摩書房の全集「現代漫画」の第二期に「富永一朗集」があり、
そこにポンコツおやじもあったので読んでみた。
正直、まったくピンとこない。
50のオッサンと、70のババアの友情ドタバタ劇、というコンセプトらしい。
ハイテンションのセリフ回しが歌の文句みたいで独特のリズムがあり、
訳のわからない展開と併せてトリップしていく感はある。G=ヒコロウみたいだ。
しかしこれで白土三平を超えるアクション漫画とする須山の感性こそポンコツおやじである。
全集「現代漫画」の鶴見俊輔の、子供漫画の解説は感銘を受けたので、
期待して富永一朗の巻末の解説を読んだが、小難しくてよく分からなかった。
不思議なことに富永一朗は風刺漫画の賞、
文春漫画賞には5度もノミネートされているが、一度も受賞に至ってない。
2006年に出版された現代漫画博物館1945-2005には、富永一朗の名前がない。
ついでに言うと近藤日出造の名前もない。
もちろん須山計一の名前もない。
現在、長谷川裕「貸本屋のぼくはマンガに夢中だった」という本を読んでいる。
貸本や、ストーリー漫画に夢中になった作者が、風刺漫画専門誌だった「漫画讀本」について書いているのが印象に残ったので引用したい。
>肝心の絵も、あまり魅力的でなかった。似顔絵を描かせたら天下一品の清水崑や、市井の風景を綴密なタッチで描く六浦光雄など、数少ない例外を除くと、「漫画読本』の大人マンガの絵は、どれも油っ気がなく、淡白に見えた。そこには手塚マンガや杉浦マンガのような、どのページをめくってもあふれ出してくる、ぎらぎらしたものがほとんど感じられなかった。
>それに対して、子供向けのストーリー・マンガや劇画は、たとえデッサンが怪しげだろうが、パースが狂っていようが、そんなことを忘れさせてしまうほどの熱気、生命力にあふれていた。劇画やストーリーマンガの若き作者たちは、不器用ながらも、むずかしい構図や人物の微妙な表情などを、なんとか描き込もうと努力していた。その結果はおおかた野暮ったく、どこか破綻しており、けっして成功しているとは言いがたかったけれども、そこには作者の真剣さがにじみ出ていて、その迫力が読者をとらえて放さなかったのではないか。
>そうした貸本マンガ・劇画にくらべると、私には、「漫画読本」の大人マンガは手抜きにしか見えなかった。というよりは、ネームとコマ割りをみっちりと構成し、一コマ一コマを多大な労力をかけて埋めながら描かれた、新興のストーリー・マンガや劇画には、さらりと淡白な味をねらったこれまでの大人マンガを手抜きに見せてしまうほどの、強烈なエネルギーが充満していたということなのだろう。
>それから四十年たった現在でも、時事マンガ、一コマ・マンガの類は、旧態依然のまま、まったく変化していない。戦後のストーリー・マンガや劇画があれほど激しく、その表現様式を変化、発展させていったことを考えると、これはなんとも不思議なことだ。
>いずれにせよ、熱気とエネルギーを欠いた大人マンガが、子供の目に退屈に映ったのは当然で、いかに軽妙酒脱だろうが、デフォルメの妙があろうが、「漫画読本」は、貸本マンガや劇画の持つ圧倒的な。パワーの前には勝負にならなかった。このころが全盛だった「漫画読本』は、以後、しだいに読者を失い、ついには廃刊に追いやられる。
漫画讀本が廃刊になるのは「日本漫画100年」の2年後の1970年。
「日本漫画100年」には同じく1970年に常識外の負債を近藤日出造らが抱えて倒産する、日本初の漫画専門学校「東京デザインカレッジ」開校についても華々しい話題として扱っている。涙。
「劇画は邪悪」
おそらく明治大正から生きていた人は、こうとしか考えられなかったのだろう。
それだけに戦後の漫画の変化は予測不能で劇的で、強いアレルギーを伴うものだった。
それは手塚治虫や劇画がもたらしたものだと言って間違いない。
なぜ戦前の漫画史は一度人々の記憶から消え、手塚トキワ荘史観がはびこったのか?
…と言う疑問のヒントも、ここにあるような気がする。
劇画の第一人者のさいとうたかをも、かつては「劇画は漫画とは全く違うもの」と言っていた。
スマホの縦読み漫画にAIイラスト。
漫画を取り巻く環境は今なお激変の時代を迎えようとしている。
同じことが起こらないと言えるだろうか。
今の多くの漫画ファンが、ひょっとしたら将来の須山峯島近藤になっているのかもしれない。
弘兼憲史・猪瀬直樹「ラストニュース」に好きなセリフがある。
「ふむ…しかし、キミが父上を乗り越えるまでにはもうちょっと時間がかかるでしょうなあ。」
「東都新聞は百年の歴史を誇りますが、テレビ業界はたかだか四十年(1993年時点)の浅い歴史しかありません。経験が必ずしもプラスに働くとは限らないでしょうね…」
さいきん雁屋哲が、しりあがり寿の風刺漫画を芸術だと絶賛しているのを見て「ふふっ」となった。
上流だった風刺漫画はほとんど現在死滅している。
そんな光景を見てきたからこそ、手塚治虫のこのセリフなのかもしれない。
「…マンガは残りませんよ。」
「…そうかなァ… そうでしょうか。」
「作者と一緒に時代と共に、風のように吹き過ぎていくんです。ーそれでいいんです。」
この「ポンコツおやじ」って一応映画にもなったみたいですね。
https://eiga.com/movie/69862/
富永一朗はこの後「お笑いマンガ道場」で友人の鈴木義司と共に円楽、歌丸ポジションで活躍していましたね。ご本人たちは楽しそうでしたが、ココ一連の近藤日出造の話を伺っていると複雑な気分になりますね。
by ネスカフェ (2023-12-07 23:22)
どんな映画になっているのか、
想像つかないような、つくような。
サブスクで見れたらいいなと思ったけど、ありませんね。
監督の才賀明さんは、ビッケの脚本もやってるんですね。
by hondanamotiaruki (2023-12-09 02:06)