手塚治虫が目をつけた経営者、藤沢武夫とは?全ホンダ社員が読んで語り継ぐべき甲良幹二郎/工藤一郎「本田宗一郎物語」 [名作紹介]
なんとなく流れてきたのを見て興味を引いたホンダ技研公式アカウントのツイート。
本田技研の創業者、本田宗一郎の自伝漫画を紹介していた。
ちょっとポップで可愛らしい感じの絵柄。
1996年に小学館から出版されたものらしい。
なぜだ!
本田宗一郎の自伝漫画といえば、
1988年に宝友社から出版された、
甲良幹二郎作画、工藤一郎脚本の「本田宗一郎物語」全2巻を勧めるべきだろう!
…って憤りました。


物資の少ない終戦直後、湯たんぽをガソリンタンクにしてオートバイを作るシーンが印象的。
子供の頃に読んで以来なので、久しぶりに読みたくなって取り寄せてみたところ、これがやっぱり面白い。名作だ。ずっとさいとうたかをが描いていると思っていたのだけど、さいとうプロの元チーフアシだった人の作品なんだそうだ。


(画像は瀬戸龍哉「コミックを創った10人の男」より)
まあでもコンプライアンス的に今だとダメだなと思う箇所がある。
本田宗一郎のシゴキは厳しく、殴ったり蹴ったりしていてPTSDになるまで追い込んで退職させたりするシーンがある。…まあ常識的な会社だったら宣材には使えんわな。


あと、この漫画読んでいると、世の車会社はホンダしかないと思ってしまうのは一つ欠点か。
そもそも自分はあまり車に興味がない。
大人向けの漫画なので、トヨタや日産があるのは当たり前と思って読むものなのだろうが、そう言った知識が一切ない頃に読んだので、大人になって実はトヨタがナンバーワンだと知って、どういうことだ!って思ってしまった。もちろんトヨタは漫画の中に出てくるのだけど、大した印象も説明もない。
漫画の後半に出てきて、本田宗一郎とコンビを組み、ダブルライダー的な存在感を醸し出している藤沢武夫。経営センスのなさを自覚した本田宗一郎に会社の実印を預けられ、ホンダを世界的なメーカーに仕立てたすごい人なんだそうだ。この年になって漫画を読み返すと凄さにジワジワくる。


資本金600万の頃、設備投資に億単位の機械を買いたいと悩む本田宗一郎を見て、
「この男の才能を花開かせることができるなら、その程度の投資は安いものだ……!!」


と思うシーンはかっこいい。
藤沢武夫のウィキペディアも面白い。
・1973年(昭和48年)、社長の本田とともに副社長を退き取締役最高顧問となる。この引退は後継育成を見極めた藤沢が決断したもので、本田はその藤沢の決断を聞いた際に藤沢の意思をくみ取り、引退を決断したと言われている。創業25周年を前にしての両者の現役引退は、当時最高の引退劇とも評された。
・日本では本田の影に隠れて、あまり広く知られていない藤沢だが、稀代の名参謀と呼ばれ、ビジネススクールでは度々取り上げられている。しかし本人は「私は経営学など勉強した事がない。何冊か手にとって読んだことはあるが、結局その逆をやれば良いんだと思った。」と語っていた。「経営者とは、一歩先を照らし、二歩先を語り、三歩先を見つめるものだ。」との言葉も残している。
・現役時代の藤沢は、本社とは別に銀座の越後屋ビルの一室を借り、調度品にいたるまで全て黒で統一し、その部屋にこもって経営戦略を練ったという。また洒落者で知られ、着流し姿で出社することもしばしばあったという。
・無類の舞台好きであり、歌舞伎はもとより、世界各国のオペラ座に着物姿で観劇した。また、常磐津が玄人並の腕前で「文王」の名も持っていた。隠居後の藤沢は「自分は引退した老骨」と語り、自分から社の経営に口を出す事はしなかった。政界財界人との交流もあまりなく、むしろ先代の中村勘三郎や作家の五木寛之、谷崎潤一郎などの文化芸術人との世間話を楽しむ風流人として過ごした。
・藤沢の死後、1989年に本田宗一郎が日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たした時に、本田は授賞式を終えて帰国したその足で藤沢邸に向かい、藤沢の位牌に受賞したメダルを架け「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。これは二人のものだ」と語りかけた。
・洒落た紳士的な雰囲気の一方で、仕事に対して厳しく部下の不手際を叱る際は容赦なく厳しい言葉を浴びせた。大きな目と半開きぎみの口から次々と大きな声で怒鳴る仕草から当時流行っていた怪獣映画になぞらえ「ゴジラ」とも陰で呼ばれていた。
・「ホンダの社長は、技術畑出身であるべき。」という言葉を残している。この方針はホンダにおいて現在まで忠実に守られており、初代の本田から現職の八郷隆弘に至るまで、歴代の社長全員が技術畑出身である。そのうち福井威夫まではエンジン開発部門の出身であった。
藤沢武夫のそのキャラの面白さは、あの手塚治虫も目をつけていたというからすごい。
・1979年(昭和54年)、鈴鹿サーキットと多摩テック(閉園)のマスコットキャラクター「コチラちゃん」のデザインモデルとして手塚治虫から取材を受け、同年10月に「コチラちゃん」はマスコットとして誕生した。マスコットキャラのコチラちゃんは、最初他のものにしようとしていた手塚治虫が藤沢を見て、突然完成させてしまった。大きな目と大きな体、そして大声だったので、当時の社員から「ゴジラ」とあだ名されていた事も要因である。
そのコチラちゃんと、藤沢武夫本人の画像がコチラ。


…あんまりピンとこない気もするけど、
どんな人だったのか、写真だけでなく動いてるところも見てみたいなと思いました。
ちなみに私の現在の車もホンダです。
これ書いてる現在、amazonには2巻しか売ってない、、、
そしてここから本田宗一郎の暗部を追いかける旅が始まるのである…。続く!
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本田技研の創業者、本田宗一郎の自伝漫画を紹介していた。
ちょっとポップで可愛らしい感じの絵柄。
1996年に小学館から出版されたものらしい。
なぜだ!
本田宗一郎の自伝漫画といえば、
1988年に宝友社から出版された、
甲良幹二郎作画、工藤一郎脚本の「本田宗一郎物語」全2巻を勧めるべきだろう!
…って憤りました。

物資の少ない終戦直後、湯たんぽをガソリンタンクにしてオートバイを作るシーンが印象的。
子供の頃に読んで以来なので、久しぶりに読みたくなって取り寄せてみたところ、これがやっぱり面白い。名作だ。ずっとさいとうたかをが描いていると思っていたのだけど、さいとうプロの元チーフアシだった人の作品なんだそうだ。

(画像は瀬戸龍哉「コミックを創った10人の男」より)
まあでもコンプライアンス的に今だとダメだなと思う箇所がある。
本田宗一郎のシゴキは厳しく、殴ったり蹴ったりしていてPTSDになるまで追い込んで退職させたりするシーンがある。…まあ常識的な会社だったら宣材には使えんわな。

あと、この漫画読んでいると、世の車会社はホンダしかないと思ってしまうのは一つ欠点か。
そもそも自分はあまり車に興味がない。
大人向けの漫画なので、トヨタや日産があるのは当たり前と思って読むものなのだろうが、そう言った知識が一切ない頃に読んだので、大人になって実はトヨタがナンバーワンだと知って、どういうことだ!って思ってしまった。もちろんトヨタは漫画の中に出てくるのだけど、大した印象も説明もない。
漫画の後半に出てきて、本田宗一郎とコンビを組み、ダブルライダー的な存在感を醸し出している藤沢武夫。経営センスのなさを自覚した本田宗一郎に会社の実印を預けられ、ホンダを世界的なメーカーに仕立てたすごい人なんだそうだ。この年になって漫画を読み返すと凄さにジワジワくる。

資本金600万の頃、設備投資に億単位の機械を買いたいと悩む本田宗一郎を見て、
「この男の才能を花開かせることができるなら、その程度の投資は安いものだ……!!」

と思うシーンはかっこいい。
藤沢武夫のウィキペディアも面白い。
・1973年(昭和48年)、社長の本田とともに副社長を退き取締役最高顧問となる。この引退は後継育成を見極めた藤沢が決断したもので、本田はその藤沢の決断を聞いた際に藤沢の意思をくみ取り、引退を決断したと言われている。創業25周年を前にしての両者の現役引退は、当時最高の引退劇とも評された。
・日本では本田の影に隠れて、あまり広く知られていない藤沢だが、稀代の名参謀と呼ばれ、ビジネススクールでは度々取り上げられている。しかし本人は「私は経営学など勉強した事がない。何冊か手にとって読んだことはあるが、結局その逆をやれば良いんだと思った。」と語っていた。「経営者とは、一歩先を照らし、二歩先を語り、三歩先を見つめるものだ。」との言葉も残している。
・現役時代の藤沢は、本社とは別に銀座の越後屋ビルの一室を借り、調度品にいたるまで全て黒で統一し、その部屋にこもって経営戦略を練ったという。また洒落者で知られ、着流し姿で出社することもしばしばあったという。
・無類の舞台好きであり、歌舞伎はもとより、世界各国のオペラ座に着物姿で観劇した。また、常磐津が玄人並の腕前で「文王」の名も持っていた。隠居後の藤沢は「自分は引退した老骨」と語り、自分から社の経営に口を出す事はしなかった。政界財界人との交流もあまりなく、むしろ先代の中村勘三郎や作家の五木寛之、谷崎潤一郎などの文化芸術人との世間話を楽しむ風流人として過ごした。
・藤沢の死後、1989年に本田宗一郎が日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たした時に、本田は授賞式を終えて帰国したその足で藤沢邸に向かい、藤沢の位牌に受賞したメダルを架け「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。これは二人のものだ」と語りかけた。
・洒落た紳士的な雰囲気の一方で、仕事に対して厳しく部下の不手際を叱る際は容赦なく厳しい言葉を浴びせた。大きな目と半開きぎみの口から次々と大きな声で怒鳴る仕草から当時流行っていた怪獣映画になぞらえ「ゴジラ」とも陰で呼ばれていた。
・「ホンダの社長は、技術畑出身であるべき。」という言葉を残している。この方針はホンダにおいて現在まで忠実に守られており、初代の本田から現職の八郷隆弘に至るまで、歴代の社長全員が技術畑出身である。そのうち福井威夫まではエンジン開発部門の出身であった。
藤沢武夫のそのキャラの面白さは、あの手塚治虫も目をつけていたというからすごい。
・1979年(昭和54年)、鈴鹿サーキットと多摩テック(閉園)のマスコットキャラクター「コチラちゃん」のデザインモデルとして手塚治虫から取材を受け、同年10月に「コチラちゃん」はマスコットとして誕生した。マスコットキャラのコチラちゃんは、最初他のものにしようとしていた手塚治虫が藤沢を見て、突然完成させてしまった。大きな目と大きな体、そして大声だったので、当時の社員から「ゴジラ」とあだ名されていた事も要因である。
そのコチラちゃんと、藤沢武夫本人の画像がコチラ。

…あんまりピンとこない気もするけど、
どんな人だったのか、写真だけでなく動いてるところも見てみたいなと思いました。
ちなみに私の現在の車もホンダです。
これ書いてる現在、amazonには2巻しか売ってない、、、
そしてここから本田宗一郎の暗部を追いかける旅が始まるのである…。続く!
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