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志村けん、コロナウイルスで亡くなる [時事ネタ]

志村けんが亡くなった。

コロナに感染したニュースが報じられて、しばらくしてのことだった。
そういえば医療関係者が語るまとめみたいなので、なんちゃらの段階に入っていたのでまず助からないみたいな投稿があったのを読んだ気がする。。。それでも良くなって「大丈夫だぁ」って見出しが踊るのを期待してたんだけど。

 
志村けんが出てくる漫画って、いっぱいあるようであまり思い浮かばない。
自分の蔵書の中で真っ先に思い浮かぶのは一丸の相撲部屋漫画「おかみさん」4巻
主人公の好きなTV番組が「志村けんのだいじょうぶだぁ」なのだ。
志村後ろ3.png
この漫画には他に『8時だョ!全員集合』に影響を受けたと感じられるシーンがある。
志村後ろ2.png
 
書いていて思い出した。
うすた京介の「すごいよマサルさん」4巻にも変なおじさんの鼻歌を口ずさむシーンがあった。
みだなしなみの最中、自身のアフロヘアーを爆発した志村けんに例えての流れだ。
気絶するコマの「だっふんだ」も志村けんの決め台詞。
志村後ろ4.png
 
ドリフのリーダー、いかりや長介の本を2冊持っている。
その中の一冊、「だめだこりゃ」の志村けん登場シーンを読み返してみた。

8時だョ!の視聴率が50%を超える人気番組になった時期、ドリフのメンバーのひとり、荒井注が体力の限界だと脱退することになった。緊急会議の結果、後任はドリフの付き人だった志村けんだと関係者の意見が一致したという。
志村後ろ1.png

志村は「全員集合」がはじまる一年半ほど前に、突然、私の家に訪ねてきた。
「もうすぐ高校卒業しますから付き人の一人に加えてください」
衣装や楽器などを運びながらの営業が続いていた時期だった。人手はいくらあっても足りない。すぐに了解した。1968(昭和43)年の春前だった。
その時は、手が増えていいだろう、くらいにしか考えてなかった、音楽に関しては、二流から四流の集まりで、笑いに関しては素人の集まりでしかなかったドリフだったが、今思えば、この志村だけが、本格的なコメディアンの才能をそなえていたのかもしれない。
志村はしばらくしてドリフを離れ、また戻ってきたりした。

志村は他の付き人とは違い、どん欲に笑いを盗もうとしていた。また作ろうともしていた。大勢付き人はいたが、そのなかでコンビを組んで、ちょっとした空き時間にネタを見てくれなんて発表していたのは志村だけだった。

志村はお笑いコンビ「マックボンボン」を結成し活動もしていたがうまくいかず、またドリフの付き人に戻ったという。そんな流れでのドリフ加入。ここから4ヶ月間、ドリフは6人だった。そして荒井注の「なんだ馬鹿野郎」「ジスイズアペン」などのギャグもこの時期に生まれたという。

そんな沢北戦で終わるスラムダンクのようなテンションの荒井注と入れ替わりで入ってきた当時の志村が視聴者に受け入れられるまでは当然苦労があったという。志村だけでなく、この時期はドリフ自体が苦しかったといかりやは語っている。

そして「東村山音頭」で志村がブレイクする。
番組会議の息抜きに将棋を指している時、のっている時に自然と出てくる志村の鼻歌がキッカケ。
地元の役所が市域振興のために作った歌だという。ちなみに自分はこの東村山音頭に関しては、ギリギリ世代ではない。

自分的にドリフは加藤茶と志村けんの「ひげダンス」からだった。


子供にとってわかりやすいこの二人が、後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を任されたのは至極当然の流れだった。大人になって振り返ってみると、すごい人事(じんじ)だよな。当時、番組から下ろされたに等しいドリフのメンバーの心中がどういうものであったか。いかりや長介はあまり詳しく書いていない。メンバーの仲が悪いことは認めつつも、そのことに関して遺恨はないと書いている。知っての通り、ドリフの活動はその後も継続している。

『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』はPCエンジンのローンチタイトルにもなった。
ハドソンから発売された『カトちゃんケンちゃん』は最も有名な志村けん登場ゲームだと思う。

このゲームはキャラクターの表情が非常にリアルで、キャラが非常にデカい『THE 功夫』(ザ クンフー)と並んで、当時の最新ゲーム機の性能を見せつけた。最近発売されたPCエンジンミニには海外版が収録されていたが、版権の関係だろうか。

 
Twitterに面白い追悼漫画があった。











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