マンガ文化を衰退させる親のお仕着せ、「自主規制」。楠本まきのジェンダーバイアス論の先に明確に見える落とし穴 [時事ネタ]
楠本まきさんはインタビューの中でこう語っている。
>少女漫画が、ただ不作為にジェンダーバイアスを容認するのをやめて、それを覆すような、肯定感や勇気を与える場となれば、自ずと少女漫画を読む人もまた増えるんじゃないかと私は思うんですけど。私の希望的観測かもしれません。
少女漫画家時代のちばてつやは「ユカをよぶ海」で現実に見合ったリアリティある新たなヒロイン像を確立して賞賛を得た。そういうことが漫画では繰り返し行われてきたし、楠本さんもしてきたはずである。それを今、マニュアルによって自主規制化することによって読者が増えると楠本さんはおっしゃっているが、俺はとんでもない間違いだと思う。
漫画はそもそも衰退する構造を抱えている。
それが親のお仕着せだ。
楠本さんが読者を取り戻せると追加で無邪気に行おうとしている自主規制は、そもそもマンガを衰退させる避けられない業界構造のひとつなのである。
ブログに書く機会を失ってしまっているが、毒親系の漫画を一時期たくさん読んだ。
その時に思ったのは、親は良かれと思って子供に失敗させまいとする。
だが、子供は失敗してでも自分の道は自分で選択したいのだ。
そして、そんな親を子供は嫌い、時には殺そうとまで思う。…ということだ。
チキンレースというのがある。
例えば断崖絶壁に向かって走りだし、恐怖して止まった方が負け。死ぬかもしれないギリギリのところを競う遊びだ。マッチに火をつけてみたり、河原で拾ったエロ本を読んだり。親に隠れて悪さをする子供の心理はこれに近いと思う。
拠り所となる親の存在は認めつつも、そこは無菌室である。社会に出れば親の言ってたことも単なる建前だったんだと失望することも多い。いじめは大人になってもある。外見もお金も大事。職業に貴賎はないのも嘘だし、男女平等と言いつつも世の中には男も女も異性をバカにする人で溢れている。
いつか社会に出た時に、危険なこと、もの、から避けるセンサーである「世間知」を身につけるため、子供達は本能からか危険なことに挑み、リアルに生きる術を学んでいくのではないか。
島本和彦の漫画「ワンダービット」に、悪書を追放するのではなく、親が良書と思った本をバンバン買い与えれば良い、という話がある。
なかなか好きなエピソードなのだが、まず子供は親の与える本を読まないだろうと思う。親の与える本から危険な香りがしてこないからだ。
手塚治虫の「ぼくはマンガ家」にはこうある。
>時には、親や先生や評論家が口を揃えて、「これはまことに良い漫画だ。すすんで子供に読ませたい」という漫画が出た。だが、結果はさんざんだった。子供はそっぽを向き、返本の山で、出版社は二度とそんなものに手を出さなくなった。
>この矛盾ーーそして、漫画はとり上げられても焼かれても、子供がどこからかひっぱり出してきては、こっそりかくれて読む現実ー。
世に溢れる様々なものを、子供が勝手にとって危険な成分をうまく取り除けずに消化不良を起こすことを親は心配する。魚の小骨を取り除いて食べさせようとする。子供からすれば信頼してよという話である。たとえ失敗して喉に小骨が刺さったとしてもそれはかけがえのない学びとなるのである。
漫画が大衆娯楽として認知され、様々な規制を要求されるというのはまあわかる。しかし漫画は確実につまらなく、ぬるく、安全になっていったはずである。業界が親に成り代わってのお仕着せをやろうというのだ。子供が読まなくなって当たり前である。楠本まきさんの話に戻るが、楠本さんは漫画の小骨を取ろうとしている。文字通り今よりさらに骨抜きにしようとしているだけだ。安全になるのよ?何が悪いの?と言う態度である。
光原伸の「アウターゾーン」の87話「禁書」という有名なエピソードがある。
有害図書によって重罪にまでなってしまう近未来を描いたフィクションだ。
裁判にかけられた西崎は最後に言う。
「子供は我々が考えているよりずっと大人なんだ。あんた達も昔は子供だったのに何故それがわからない…!!」
もっと言えばジェンダーバイアスという言葉は括りとして便利で、大雑把すぎる。そもそもジェンダーバイアスが無い人間などいるわけがないのだ。いるとしたらそれは一見して相手が男か女かわからない、初期のドラゴンボールの孫悟空みたいな人間だろう。
ジェンダーバイアスとは、もっと突き詰めていくと他人バイアスなのかもしれない。人のことを分かったような気になる。他人は自分ができることを同じように出来る。同じように考える。
次回はその辺のことを書くかもしれない。
>少女漫画が、ただ不作為にジェンダーバイアスを容認するのをやめて、それを覆すような、肯定感や勇気を与える場となれば、自ずと少女漫画を読む人もまた増えるんじゃないかと私は思うんですけど。私の希望的観測かもしれません。
少女漫画家時代のちばてつやは「ユカをよぶ海」で現実に見合ったリアリティある新たなヒロイン像を確立して賞賛を得た。そういうことが漫画では繰り返し行われてきたし、楠本さんもしてきたはずである。それを今、マニュアルによって自主規制化することによって読者が増えると楠本さんはおっしゃっているが、俺はとんでもない間違いだと思う。
漫画はそもそも衰退する構造を抱えている。
それが親のお仕着せだ。
楠本さんが読者を取り戻せると追加で無邪気に行おうとしている自主規制は、そもそもマンガを衰退させる避けられない業界構造のひとつなのである。
ブログに書く機会を失ってしまっているが、毒親系の漫画を一時期たくさん読んだ。
その時に思ったのは、親は良かれと思って子供に失敗させまいとする。
だが、子供は失敗してでも自分の道は自分で選択したいのだ。
そして、そんな親を子供は嫌い、時には殺そうとまで思う。…ということだ。
チキンレースというのがある。
例えば断崖絶壁に向かって走りだし、恐怖して止まった方が負け。死ぬかもしれないギリギリのところを競う遊びだ。マッチに火をつけてみたり、河原で拾ったエロ本を読んだり。親に隠れて悪さをする子供の心理はこれに近いと思う。
拠り所となる親の存在は認めつつも、そこは無菌室である。社会に出れば親の言ってたことも単なる建前だったんだと失望することも多い。いじめは大人になってもある。外見もお金も大事。職業に貴賎はないのも嘘だし、男女平等と言いつつも世の中には男も女も異性をバカにする人で溢れている。
いつか社会に出た時に、危険なこと、もの、から避けるセンサーである「世間知」を身につけるため、子供達は本能からか危険なことに挑み、リアルに生きる術を学んでいくのではないか。
島本和彦の漫画「ワンダービット」に、悪書を追放するのではなく、親が良書と思った本をバンバン買い与えれば良い、という話がある。
なかなか好きなエピソードなのだが、まず子供は親の与える本を読まないだろうと思う。親の与える本から危険な香りがしてこないからだ。
手塚治虫の「ぼくはマンガ家」にはこうある。
>時には、親や先生や評論家が口を揃えて、「これはまことに良い漫画だ。すすんで子供に読ませたい」という漫画が出た。だが、結果はさんざんだった。子供はそっぽを向き、返本の山で、出版社は二度とそんなものに手を出さなくなった。
>この矛盾ーーそして、漫画はとり上げられても焼かれても、子供がどこからかひっぱり出してきては、こっそりかくれて読む現実ー。
世に溢れる様々なものを、子供が勝手にとって危険な成分をうまく取り除けずに消化不良を起こすことを親は心配する。魚の小骨を取り除いて食べさせようとする。子供からすれば信頼してよという話である。たとえ失敗して喉に小骨が刺さったとしてもそれはかけがえのない学びとなるのである。
漫画が大衆娯楽として認知され、様々な規制を要求されるというのはまあわかる。しかし漫画は確実につまらなく、ぬるく、安全になっていったはずである。業界が親に成り代わってのお仕着せをやろうというのだ。子供が読まなくなって当たり前である。楠本まきさんの話に戻るが、楠本さんは漫画の小骨を取ろうとしている。文字通り今よりさらに骨抜きにしようとしているだけだ。安全になるのよ?何が悪いの?と言う態度である。
光原伸の「アウターゾーン」の87話「禁書」という有名なエピソードがある。
有害図書によって重罪にまでなってしまう近未来を描いたフィクションだ。
裁判にかけられた西崎は最後に言う。
「子供は我々が考えているよりずっと大人なんだ。あんた達も昔は子供だったのに何故それがわからない…!!」
もっと言えばジェンダーバイアスという言葉は括りとして便利で、大雑把すぎる。そもそもジェンダーバイアスが無い人間などいるわけがないのだ。いるとしたらそれは一見して相手が男か女かわからない、初期のドラゴンボールの孫悟空みたいな人間だろう。
ジェンダーバイアスとは、もっと突き詰めていくと他人バイアスなのかもしれない。人のことを分かったような気になる。他人は自分ができることを同じように出来る。同じように考える。
次回はその辺のことを書くかもしれない。
アウターゾーン 全15巻完結 (ジャンプコミックス) [マーケットプレイス コミックセット]
- 作者: 光原 伸
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1994
- メディア: コミック
2019-04-15 17:48
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