手塚治虫、石ノ森章太郎を読んでいないのは嘆かわしいのか?自分の漫画史に誤解はないか問題 [漫画の描き方が書かない漫画の描き方]
手塚、石森、赤塚あたりいまの学生さんも読んでて当然、と漠然と思ってる中高年は多いと思いますが、そんなことはないのですよ。手塚はどうも地域の図書館や学童にあった等で、それでもまだ読まれているほうですが。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2018年5月27日
「手塚、石森、赤塚あたりいまの学生さんも読んでて当然、と漠然と思ってる中高年は多いと思いますが、そんなことはないのですよ。手塚はどうも地域の図書館や学童にあった等で、それでもまだ読まれているほうですが。」
というツイートが話題になってまとめられていた、…というのを今頃知る俺のアンテナ。漫画専門学校の講師なのだろうか、漫画の歴史の授業でレジェンドの名前を出すと教室が白けた感じになるのがわかるので嫌なのだそうだ。
それに対して、発言主に共感する意味で「嘆かわしい」とリプライする人がいて、講師が「それは違う」と返事したやりとりがすごく印象に残った。
(注意:ここからは俺の解釈で、講師さんの意図がなんだったかというのは置いておく。)
手塚、石森あたりに興味を持たないことが嘆かわしいだろうかと思う。
漫画の歴史の先生が知らなかったら嘆かわしいかもしれない。
単なる読者は、手に届くところにある漫画を読んで、電車の網棚に忘れて帰るのみである。
漫画編集者だったらどうか?
漫画家は?
この辺は実力主義だ。
実力が無ければそこに結び付けられてしまうかもしれないが。
本当に実力のある人なら、逆に変な予備知識がない方がいいのかもしれない。
実力のない人は古典よりも、近年のヒット作を知っている方が重要だろう。
弘兼憲史の「ラストニュース」のこのコマ好き。若手経営者がちょっと老害入ったカリスマ経営者に宣戦布告するシーンである。
「君の父上は本当に良きライバルでしたよ。」
「ありがとうございます。しかし、もう父の時代のやり方では通用しないと思っております。」
「ふむ…しかし、キミが父上を乗り越えるまでにはもうちょっと時間がかかるでしょうなあ。」
「東都新聞は百年の歴史を誇りますが、テレビ業界はたかだか四十年(1993年時点)の浅い歴史しかありません。経験が必ずしもプラスに働くとは限らないでしょうね…」
漫画の歴史というと、大抵の人が思い浮かぶのはいわゆる「トキワ荘史観」というヤツだ。手塚治虫が誕生して漫画が生まれ、それに憧れた石森、赤塚、藤子不二雄とその他のよくわからない仲間たちが集って漫画文化を確立した。これが一般の日本人の認識だと思う。その上のレベルになると、貸本という媒体で描いてたさいとうたかをとかがいて…ぐらいのボンヤリした知識が入ってくる。
この辺を知らないと「嘆かわしい」とマウント取りに来る人は割とたくさんいそうな気がする。
だが、それ以前にも漫画はあった。
みなもと太郎の「マンガの歴史」にその辺のことが書いてあったような気がする。気がするというのは、読むのが苦痛で読んだ後に全て忘れてしまったのだった。別にマンガの歴史に興味があったわけでなく、みなもと太郎ファンだから買っただけなのだ。これが漫画で描かれていたら、もっと頭に入ってきたのであろうが。。。
「嘆かわしい」というからには、この辺の手塚以前も知っていなければ話にならんだろう。こないだ手塚治虫の師匠である「謎の漫画家・酒井七馬」を読んだばかりだが、知らないことばっかりだった。そして、そんな俺の知らないことにもマニアがおり、交流したり展示会を開いたりして知識を補完しあったりしている。正直、ちょっと頭がクラクラした。
人それぞれの漫画史があると思う。
無難にまとめに入りたいわけではなく、それぞれ「こうだ!」という漫画史があり、それが正しいと誤解しているのではないかという話だ。
続く。
2019-03-10 09:25
nice!(0)
コメント(0)
コメント 0