SSブログ

美大の先生「芸術は誰も不快にしない!」ゲシュタルト崩壊を引き起こすこの言葉について考えてみた [心に残る1コマ]

「芸術は特定の誰かを不快にさせてまで発信するものでは無い、と美大の先生から教わった」というフレーズがネットで注目を集めているのを見た。だから表現の自由もその上で成り立つと。ちょっと目眩を覚えた。

俺が誤読してるのかなと、だんだんゲシュタルト崩壊を起こしてくるようなフレーズなのだが、発言主の他の発言を追ってみると、冴えない男への呪いの言葉を吐き続けているタイプの女性だったので、まああまり深い意味はないのだろうなという結論に落ち着いた。自分が嫌いな表現を抹殺しようと、美大出というプロフィールで説得力を加えたかったのだろう。

自分が芸術を語るのもおこがましいが、世間様にお伺いを立てることを第一義にするものを芸術とは言わないような気がする。もっと純粋に、自分の心からの衝動を表現するものだと思うけど。

しかしだ、これは理想であって、芸術家として食っていきたいのであれば世間様の意向を忖度するのが普通だ。世の中に残っている名作も、世渡り上手が作ったものが多いと思う。そもそも「名作を作った人=人格者」というのはありがちな刷り込みだ。

口当たりの良い言葉に世間が条件反射的に共感することを計算しての冒頭の発言なら随分ひどい話だが、この件については衝動的に便利な言葉として使ったものではないかと個人的には思える(遠回しに褒めてない)。だからゲシュタルト崩壊を起こすのだ。

美大出でもない自分が確信しているのは、審美眼なんて誰にも無いということだ。美の基準も時代によって変わると、日本人の大多数はわかっているとも思う。だから例え現時点でなんの価値がないと判断した他人のなんらかの作品についても、一応畏怖があり尊重する。判断を委ねる。いつか価値が上がるかもと夢見たりする。処分に困るようでなければ、わざわざ率先して焼却したり破壊したりはしない。

イントレ3.png

だから、表現の自由は尊重されるのだ。
ある程度道徳的におかしな表現であってもお目こぼしがある。特に性表現については寛容だ。これは源氏物語とか春画とか、エロ表現が代表作な民族だからだと思う。そして不寛容(intolerance)がどれほどの後世において非難されることなのか理解している。

イントレ4.png

自身の審美眼(ここ大事)と良識によって他人の作品が焼却&破壊できるかどうか決められると思っている人は間違いなく邪悪だ。それが後世においても評価され続けると信じているなら狂っていると思う。ゾーンニングは大事だが、とんでもない間違いを犯すかもしれないという危機感を持ってのぞむべきである。

イントレ2.png

ハレンチ学園の永井豪が文部科学省から表彰されることもある。
アトムや仮面ライダーですら暴力反対の槍玉に上がったことがあるそうだ。

イントレ1.png

多くの人の心を動かしたものには反感もつきまとう。新しいものには新しいトラブルもついてまわる。全く共感できないもののために新しいトラブルを背負い込むのが嫌な人間はますます反発する。こういうのを老害、あるいはPTAのオバハンという。誰もが見てきて、ああはなるまいと思ったはずなのに、いつか誰も忘れて、かつて辟易した存在になってしまうのかもしれない。

鳥山犯罪2.png

この件に引っ掛けて何か作品を引用するつもりだったのだが、前置きで結構書けてしまった。

次回に続く。

 
タグ:芸術論
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。